ISHII SATOSHI -Kawa no Maker- >> Fly Fishing >> column:襟付きで遊ぶ
襟は男の服に於いて重要な要素だ。顔のすぐそばにあり、注目されやすい。かつ、襟のあるシャツとジャケットは、世界の殆どの国の公式な場面で通用されているワールドスタンダードと言える服装だ。
この格好は人を選ばない。誰もが着られる服だ。逆に言えば、服装が奇抜になるほどに、その服は着る人を選ぶ。服のスタイルは、基本となるルールを離れながら、奇抜で似合わなくなる手前の、バランスの中で存在している。
襟無し服は、形式に囚われない、リラックスした服だ。反対に、襟のある服はかしこまっていて、型にはまった感じがある。
世の中には襟付きの服を嫌い、襟の無い服を好む人がいる。例えば、既成概念から離れて自由な表現をしようとするミュージシャンだったり。もちろん、ジャケットをきっちり着こなすミュージシャンもいる。
話が変わるが、スーツを着た男の存在感は、何か一目置けるものがある。そのスーツが体に対して適切なバランスであるという前提はあるけれど。襟付きのシャツとジャケット、ネクタイを結び提げたこの構築的な形には、なぜ好ましい印象があるのだろうか。
テーラードカラーのジャケットは、本来立ち襟だったものを胸元を開けるよう着崩したものだ。その名残りのある襟形で、ネクタイに関しても歴史を経て現在の形ができた。
ここで、男というのは社会との関りの中で生きてきたということを私は考えてみた。社会というルールや規律の中で生きてきた男は、その中でどう自分なりの志をもって生きてきたか。仮に誰かがラフで自由に生きているようであっても、社会と離れているという関係性のもとに生きている。
話を戻し、襟というのは機能性からではなく、形式的なもので、歴史やルール、規律、社会との関係のものだと私は考えた。そのような背景のある襟は、男の格好に於いて一定の重みがあると思う。だから、男が着る形式的なスーツという格好は時に、Tシャツなどとは違い、存在感があるのではないだろうか。
思えば、フライフィッシングもわりと形式的な部分の多い釣りのスタイルだ。
形式的な中で、自分なりにどう遊ぶか。顔立ちや才能に溢れていたら、何をしてもサマになるかもしれない。でも私はそうではないわけで、自分なりに気分良くいられるかたちを探している。
シャツの襟はボタンダウンもいいけれど、そうでない普通の襟も良い。運動して襟が崩れるのは自然だともいえるし、タイを結び提げる場面ではサマになるのがメリハリがあっていい。あと、ショルダーバッグとかのベルトが襟のボタンに重なると痛い。
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