ISHII SATOSHI -Kawa no Maker- >> Living >> column:生きる意味は無い
生きる意味を考えた人は何人だろう。ここ最近数千年だけでも、どれほどだろう。そして、こういった意味があるよと周知された内容は、無い。誰に伝えても納得するような道理に叶うものは、無い。生きることの普遍的な意味は無い。
そもそもの生きる意味とは、言い換えるなら、それは生きる大義や生きる目的。
生物として子孫を残すこと、これが生きる意味だなんてことはない。人に限らず、動物も植物も、ただ残るものが残った。その子孫を残すという大義を、残らない者にも伝えて響く、誰にでも通わる道理があるなら言えている。
勉強する意味や、働く意味は?と問われれば、(良い)生活をするためといった意味、大義がある。なのに、その生活をするということ自体に、意味が無い。
国の王様、どこかのリーダーもそう。生きる意味は無い。手段として王様をし、リーダーをしていて、その座を離れたとしても、生きる意味が無くなったとはならない。自らの意思でその座を離れた人であれば、迷うこともないかもしれない。けれど、その座を失った人だと、生きる意味が失われたと絶望してしまうこともあるんじゃないかと思う。自分が大切にしていて、これぞ生きる意味だと思っていた物事を、突如失ったら。生きる意味は、それが普遍的なものなら、状況で揺らがない。
社会の中で生きる意味というのは、ある。社会の範囲はいろいろで、国や、会社、知人、通りすがりの人、家族、ある1人の人との間。ある人がいて、私がいて、その間の中で私が生きる意味はある。必要とされたことが、あるから。過去現在において、事実として、真実として、あったから。
単に1人の人が、1人の人として生きる上では、生きる意味は無い。
自分の生きる意味を考えてみたけどなかなか見つからなくて、でも誰かが喜ぶから何かを行っている。けど、それが私が生きる意味なの?もしその人との関係が悪化したり、私の力が弱くなっていったら、生きる意味は失われていくの?人との関係を大切にしようとしまいと、生きる意味自体は等しく誰にも無い。言うなら、目的ではなく手段として、何かを行っている。
手段としてのさまざまな行為。勉強をしたり、働いたり。親切にしたり。遊ぶことは?自分のために行うことは? 社会の中で、私の行為存在が、誰かに必要とされたなら、社会の中で生きる意味はあると考えているんだけど。
さっきの社会の範囲を改めて考えてみて。そこに過去の自分も含まれているのだろうか。過去の私が必要とし喜ぶことを、現在の私が行う。過去の私と現在の私は、同一か別か。
でも、結局のところ、生きる意味は無い。生きる大義、生きる目的は無い。手段として行動している。行動し、何が有るか無いか。
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